2013-0331羽黒最終日2

羽黒高校吹奏楽部を愛していただいた皆様へ
 吹奏楽部顧問 本田 礼

2008年4月1日より5年間、
羽黒高校音楽科教諭・吹奏楽部顧問として関わってきました。
また、妻の優子も5年間吹奏楽部の指導コーチとして、
3年目からの3年間は家庭科の先生としても含め、
生徒とともに毎日過ごしてきました。

今日3月31日は、その区切りとなりました。
生徒たちは、きれいに片付けられ
物のなくなった準備室を出た私たちを、
心をこめて送り出してくれました。

車が走り出してからも、
校門まで走って見送ってくれました。

車が見えなくなるまで、
ずっと手を振って見送ってくれたその思いを、
私はずっと忘れません。


・・・・・

5年前、神奈川県の公立高校を辞めて
着任したその日、部員は全員揃わず
活動もままならないところからのスタートでした。

その前年に問題が多く続いたらしく、
当時の部員は技術も心も
ずいぶん澱んでいたように思います。

活動中に爆竹が鳴ったり、
音も出さずに寝そべっての携帯いじりや
ビーチボールが飛び交うことも多かったとか。
創造の館も、いまでは“想像”できないほどですが、
床も埃で白く、
物は壊れ、
楽器も紛失し、
ゴミ箱から弁当の空箱が溢れ、
異臭も立ちこめ・・・
どこから手をつけたらいいのかわからないほどでした。

創造の館の一室を仕事部屋、準備室に整備して、
そこで部活中は常日頃一緒にいるようにしました。
音もすぐそばで聞こえ、雰囲気も感じ取れます。
なんといっても羽黒高校は、職員室までが遠いのです。

「先生は私たちを監視しているんですか」
なんて言われたときは、さすがにショックでしたが、
意地でも?部活中は一緒にいようと踏ん張りました。


当時、他校の生徒から
「羽黒の吹部はカスだ」と言われてたと、
近隣の高校の先生が後年教えてくれました。

今となっては笑い話ですが、
当時はとても音楽できる環境にはほど遠かったように
記憶しています。
田川地区の高校で一番のお荷物学校といわれ、
実際コンクールの結果も地区最下位。

しかも、前年のアンサンブルコンテストは
当日にドタキャンする部員がいて
出場辞退をしたとも聞きました。

特に、羽黒高校と合同練習を組むのは、
他の学校が嫌がっていました。
態度は悪い、服装はだらしない、練習はしない。
最近、ベテランの元中学の先生が教えてくれたことです。
これも今となっては笑い話として。

それでもやっとの思いで作った最初の1曲が、
「Birdland」だったと思います。
当時のドラムは2年生のアヤでした。
器用なほうではなかったが、
精一杯よくがんばっていたのが印象的でした。

最初は練習を「やらされている」ように感じていた部員、
反発もいろいろありました。
大きなミーティングもし、
部員の本音と私の気持ち、指導方針をキャッチボールしたことも
一度や二度ではありません。
職員室へ、部員が集団で戦い?に来たこともありました。
私もずいぶん痛い思いをしましたが、
きっと当時の生徒は私以上に痛かったことでしょう。

練習もなかなかままならない中でしたが、
そんな1年目の夏、コンクールはまさかの地区大会金賞、
県大会に出場することが出来ました。
そのときの曲は S.HazoのRide。
大会前日、みんなで山形七日町の
ワシントンホテルへ泊まっってレストランで練習したことは、
いまでも忘れられません。


また、1年目から吹奏楽と並行して
ビッグバンドにも取り組みました。
理由は簡単、人数が少ないから。

吹奏楽の楽譜では、
最近ではかなり小編成も意識されてきたものの
まだまだ大編成向けのものが多く、
歯抜け状態での演奏は
しっくりこないものでした。

ビッグバンドでは最大17人いれば、
フル編成です。
アメリカ発の、
演奏技術は易しくても、しかもかっこいい
良質なアレンジの楽譜もたくさんあります。
マーチングとちがって、
特別な道具や楽器もいらない、
すぐ始められ、少人数でも格好良く演奏できるのが
ビッグバンドジャズ。

冬にはさっそく
「スチューデントジャズフェスティバル東日本大会」
へ初出場。
このときには The Chicken を披露。
ベースの1年生、シンヤが良く支えてくれました。

1年目の生徒は、代わり目にあたり
とても苦労しました。
特に当時の3年生は、
毎年顧問が替わるということを経験し、
翻弄されたかと思います。

その中で、この年は彼らなりに
時間が経てば経つほどとてもがんばってくれました。
当時は10月が定期演奏会で、
そこで3年生は引退していました。
春頃の顔から一回り成長したこの代は、
銀色のホルンを持っていた部長のユキコを中心に、
ユリ、エリ、フタバ、ナオミチの5人。
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彼女たち3年生の代も、
それから後を引き継いだ
2年生部長カツマたちの代も、
その時々に戸惑いながらも、
よくついてきてくれたと思います。

そして2年目の春から、このブログがスタート。
ここから先、詳しくは過去記事をご覧下さい・・・(笑)


2年目。
はじめて定期演奏会を6月開催にした代でした。
小編成のバンドがこの時期に定期を開くことは、
なかなか難しいことです。

なにせ冬場は十数名しかおらず、
新入生を4月に迎えてからたった2ヶ月で、
全員野球でコンサートを成功させなければなりません。

その困難なミッションを初めて成し遂げたのが、
部長カツマたちの代、
コノミ、カナ、アヤ、サトミたちだったことは、
ずっと忘れられない思い出のひとつです。
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定期演奏会直前の
金峰少年自然の家での合宿中、
出来ない曲を減らすかどうか散々悩み、
全部やりきろうと最終的に決めた前向きさは、
その後のコンクールで
2年目にして山形県大会“金賞”という形となって
結果で現れたのでした。
この年から今年度に至るまでの4年連続金賞の、
スタートとなった代です。
そのときの曲は、A.GorbのAwayday。
難曲をよくがんばってくれました。


3年目。
5年間で最も衝撃が走った事件といえば、
この年の秋、3年生が一度に何人も抜けたことでした。
私と同じ年に羽黒高校へ来た生徒たちが、
指導に反発し集団で抜け出したのです。
全員が女子でした。

同じ女性の優子先生への反発もあったのでしょう。
しかし当の優子先生は、これまでにないほどショックを受けました。
ボロボロになったと言っても良いでしょう。
これまで滅多に生徒の前で泣かなかった人が、
声を上げて嗚咽を漏らしていました。

そのとき、それを目の当たりでみていたのが、
当時の1年生。
ハルカ、ナツミたちの代でした。
「優子先生え
 私たちが東日本大会へ連れて行って
 先生を里帰りさせます!」

そんなカードを持ってきたのはそれからすぐのことでした。
それは彼女らなりの精一杯の優しさだったのでしょう。

彼女らも傷ついていたはずです。
先輩に置いていかれ、
アンサンブルの編成も崩れ、
演奏の編成も全て組み直し、
そのしんどさは並大抵ではなかったと思います。

それを乗り越えた結果が
実は2年後に、驚く形で出るのですが・・・

集団で飛び出してしまった当時の3年生女子、
女子同士のしがらみもあり、
戻りたくても戻れない、そんな感じも
ひしひしと伝わってきました。
自分だけが「いい子」になるのは怖いものです。
一人一人、時間をかけて話をし、話をききましたが
良い結果を得ることもなく、
カレンダーだけが過ぎていきました。

秋が冬になり、もうすぐ春になろうとする頃、
一人の部員が私の元を訪れました。
サックスのユウコです。
1年生の頃から人一倍練習に励んだ、
そんなユウコでしたが、
彼女もまた集団で抜け出した一人でした。

私は彼女に一喝しました。
今更何をしに来たと。
残された後輩たちのことを考えたことはあるかと。
もう話すことはないから帰りなさい。
そう何度も言いました。
何回も追い返しました。

しかし、ユウコは何かに気付いたかのように、
今度は決して逃げませんでした。
どんなに厳しい言葉を投げられても、
逃げずに「部活に戻りたい」と言ってくれました。

結果、私と後輩たちは彼女を受け入れました。
本番もあるわけでもないのに、
卒業式の日まで、
彼女は黙々と練習しました。
久々に楽器を持ったその日の情けない音は、
今でも覚えています。
そしてその音が少しずつ魅力的なものになっていったことも。

その年の卒部生は3人。
コウシン、ユウコ、そしてその後にアヤカ。
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他の数名は結局戻れずじまいでした。


けれど、実はそれで終わりではありませんでした。

翌年の定期演奏会。
ホール会場や、練習中の創造の館に、
その後途中で抜けた生徒が何人も、顔を出してくれました。
「本当は顔出せた義理でないんですけど・・・」
といって後輩に差し入を持ってきてくれた子たち、
涙ながらに何度も
すみません、すみませんと頭を下げていた子たち、
ちょっと気づくのが遅かっただけで、
みんなちゃんと育ってくれている。
そんなことを目の当たりできた私は幸せだったと思います。

途中で辞めた部員もふくめ、
みんな私たちの教え子であり、仲間です。
その思いを確かなものとすることができました。
先日の「春風演奏会2013」でも、
卒部した生徒のほかにも、
何人も顔をだしてくれました。
本当に嬉しかったのです。


4年目。
スズカたちの代が3年生となり、
大きな出来事が3つ。

ひとつはその前年、
3年生が途中で多数抜けた直後の1月、
スズカたちの代の踏ん張りで、
「スチューデントジャズフェスティバル東日本大会」で、
なんと東日本会長賞を受賞。
東日本代表として10月、
ハママツジャズウィークの全国SJFへ出場。
この年に様々なジャンルの曲へチャレンジすることができました。

後輩ハヤテのドラムによるソウルフルな4ビートを支える
ダイスケのベース。
バラードを奏でるユウのトロンボーン。
クラと持ち替えてサックスセクションを支えてたミドリ、
ホルンと持ち替えてトランペットの1stを守ったスズカ。
努力が芽を出し始めた代だったと思います。
このときあたりから、
ようやく本格的なジャズナンバーができるようになってきました。

そして2つめは、
本校創部以来初の吹奏楽コンクール東北大会出場。
「コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディ」は、
当時の彼らにとってハマリどころの曲だったと思います。
東北大会の会場だった秋田県・湯沢文化会館で、
曲終了後会場がざわついたことは、いまでも良い思い出です。

3つめは、
「春風演奏会」の初の開催。
関東あたりでは3月の演奏会は当たり前で、
3年生もそのコンサートで卒部しますが、
このあたりの学校ではあまりないことでした。
それを最初に始めたのが、この代です。

無から有を生み出す苦しみと喜びは、
きっと生涯にわたって生きることと思います。
会場を感動につつむコンサートを立ち上げた、
この4人のパワーに、感謝しています。
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5年目。
部長ハルカを中心に、
ナツミ、ハヤテ、チハル、アカリ、ユイ、ミサキ、マユコ。
この8人は2年生以降、
ひとりも欠けずに卒部した代です。

6月には、創部50周年記念の定期演奏会を、
鶴岡市文化会館で盛大に行うことができました。
ハヤテ作、マユ朗読の
「羽黒バカ一代」は伝説の名作だと思います。

さて、この年は「花の香 桜〜桂花〜薔薇」という
素晴らしい作品に出会います。
夏以降、レベルアップを重ねながら
多くの機会で演奏することができました。

前年のコンクール実績を受け、
山形県高文連から、
「全国高校総合文化祭富山大会」吹奏楽部門の
県代表として選出していただきました。
そして8月に富山県への演奏旅行。

私のミスで宿舎の予約が1日ずれていたという
大ハプニングを、大部屋に布団を敷いて
みんな嫌な顔せず乗り切ってくれました。
全国から集まる実力校と同じステージに立ち、
たくさんの刺激をいただきました。
ちなみに帰りは
黒部峡谷鉄道トロッコ旅のおまけ付き。
観光気分も味わえました。

吹奏楽コンクールでは
2年連続東北大会出場を果たすも、
あと少しというところで目標に届かず。
今までひたすら上り調子で来た彼らが、
初めて本物の悔し涙を見せたのが、
岩手県民会館でした。

しかし、そんな彼らに飛び込んできたのが、
日本管楽合奏コンテスト予選最優秀賞受賞、
全国大会出場決定の知らせ。

結果、彼女らが1年生の時、しかもどん底の時
優子先生にした里帰りさせる約束を
3年生となったこの年、
本当に果たしてくれることとなったのです。

東京・文京シビックホールでの演奏は、
身内が言うのもなんですが、
本当に素晴らしいものだったとおもいます。
香り漂う演奏会に協力していただいた、
作曲家の天野正道先生、
綾瀬市立北の台中学校のみなさん、
練習会場を提供してくれた海老名市立有馬中学校のみなさん、
当日急遽グロッケンを貸してくれた古川学園高校のみなさんには、
とても感謝しています。

他の出場団体はどこも全国レベルにふさわしい内容で、
生徒たちは同じステージで演奏していることのすごさを
実感しているようでした。

大会終了後、
25階の展望台でみんなで眺めた夜景は
私にはとても眩しく見えました。
そこにいた生徒たちも輝いていたからなのでしょうか。


その年の冬、アンサンブルコンテストでは、
3団体中2団体が県大会出場、
県では金賞・銀賞を受賞。
数年前「カス」と言われていたこのチームが、
県内の大編成全国大会出場校と
成績順が並ぶようなところまで来ていました。

毎日のコツコツした練習だけでなく、
直球勝負から逃げない日々の取り組み。
結局ハートが大事なんだという、
一番つらい部分から逃げずにきたから、
この8人は人間的に成長しました。
1年前には考えられなかったほどです。

春風演奏会も昨年以上の来場者を迎え、
ビッグバンドも吹奏楽も、
この5年間の集大成となる演奏を
披露してくれました。
3年前はバラバラだったこの8人が、
こうして後輩が羨む生涯の友8人になるために、
どれだけの時間を費やしたことでしょうか。

けれども裏を返せば、
時間をかけて直球勝負を重ねれば、
人は信頼関係を築いて仲間になれるということを、
結果で見せてくれた代でした。
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・・・・・


5年間、それは例えるなら
荒れ地を開墾し、畑作りの日々だったと思います。

たくさんの木の根っこをガチガチの土とともに掘り起こし、
その土を慣らし、耕し、種を蒔き、堆肥をくべ、
その時々の生徒とともに
大事に大事に育ててきました。

しょっちゅう大雨がきたり、
台風で種ごと流されたり、
日照りで枯れかけたりしながら、
それでもみんなで諦めずに育てた芽が、
まさにやっと出てきたところなのだと思います。

これからどのような実がなるのか、
本当に楽しみであっただけに、
ここでお別れするのは残念でなりません。


マユ、ホリナツ、タマミ、イズミ、
ミスズ、イクミ、サヤカ、ヒカル、
ナオコ、カナコ、マサト。
ハセ、カリン、カレン、アヤネ、
カオリ、ユウシ、タクヤ。


しかし、出会いがあれば別れもあります。
それぞれ新しい日々に向かって歩き出せという、
天の知らせなのかもしれません。

色々な出来事がありましたが、
授業も部活も、生徒には本当に恵まれました。
田川地区の他校の高校生にも恵まれました。
他校の音楽関係の先生方にも恵まれました。
蔭で我が子を支え通した家族の皆さんにも恵まれました。


5年間ありがとうございました。
笑顔での別れと旅立ちに、心から感謝します。

Persimmon(s)はみんな私の家族です。


 2013年3月31日
 羽黒高等学校吹奏楽部顧問 本田 礼_1256535627_229






神奈川県に生まれ育ち、
県立高校教諭となり、
神奈川を離れることはないと思っていた私でしたが、
本田先生との出会いを経て、
山形に移り住むことになりました。

一番近いコンビニまで車で10分もかかること、
夜は真っ暗になること、
毎朝、雪を除けないと外に出られないこと、
などなど・・・
びっくりすることばかりでしたが、
「遠くからよぐ来たの。」
と、沢山の方から声をかけていただき、
少しずつ、庄内弁にも慣れてきたところでした。

空一面の降り注ぐほどの星空、
水をはった田んぼに映る真っ赤な夕日、
一面に広がる金色の稲穂、
空を舞う白鳥、
こんなに美しいものがあるのかと、
感動の連続でした。

お米も、野菜も、山菜も、果物も、豚肉も、牛肉も、お魚も、
なんでもおいしくて、
本田先生はすっかり太ってしまいました(笑)

高校だけでなく、
小学校や中学校でもお仕事をさせていただいたことは
私にとって素晴らしい経験となりました。


山形には縁もゆかりもない私でしたが、
本当にあたたかく迎えていただきましたこと、
心から感謝申し上げます。


そして、
羽黒高校吹奏楽部の生徒達との出会いに・・・
みんなと会えて、本当によかった。
幸せな5年間でした。

ありがとうございました。

 本田 優子 f9a7995f0783311c47f7128affb00e33_bigger